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【八橋検校】<br />八橋検校(やつはしけんぎょう)は江戸時代初期に活躍した箏曲の演奏家・作曲家です。 箏の独奏のために、楽器そのものや演奏法の改良を行い、「段物」などの楽式の定型化を行うなど、現在の日本の箏の基礎を作りあげ、箏曲の発展にも努めました。<br />そもそも「検校」の読み方を間違えて認識する人が多いですが「けんぎょう」と読みます。「けんこう」ではありません。<br />「検(あらた)め、校(かんがえ)る」という言葉に由来し、中世・近世における盲官(盲人の役職)の最高位が「検校」です。<br /><br />検校の起源は平安時代にまで遡ります。<br />仁明天皇の第四皇子である人康(さねやす)親王(831-872)は若くして失明し、出家した際に、盲人を集めて琵琶や管絃、詩歌を教えていました。<br />人康親王の死後、側に仕えていた盲人に検校と勾当の2官が与えられ、これが検校と呼ばれる盲官の始まりとされています。<br /><br />また「井筒八ッ橋」も八橋検校が深く関係しております。<br />常に物を大切にする検校は、特にお米を大切にしており、飯びつを洗うときに残るわずかな米のことが気になっていました。ある朝、日頃検校が何かにつけて世話になっている井筒茶店の主人「岸の治郎三」が、飯びつや桶を洗っているのに気付き、残った米を捨ててしまうのはもったいないと諭し、小米、砕米、そしてその残りの米に、蜜と桂皮末を加えて、堅焼煎餅を作るとよいと教えたといいます。これが、京の堅焼煎餅の起こりと伝えられています。
その後、八橋検校は、貞享二年(1685年)その生涯を閉じ、井筒茶店も含め祇園の茶店中で検校を偲び、琴の形に仕上げた堅焼煎餅を「八ッ橋」と名付け売り出したところ、それが大流行したと伝えられています。<br />これこそが「井筒八ッ橋」として今に受け継がれている、井筒八ッ橋本舗の原点とされています。<br /><br />写真:浄土宗大本山・金戒光明寺

【八橋検校】
八橋検校(やつはしけんぎょう)は江戸時代初期に活躍した箏曲の演奏家・作曲家です。 箏の独奏のために、楽器そのものや演奏法の改良を行い、「段物」などの楽式の定型化を行うなど、現在の日本の箏の基礎を作りあげ、箏曲の発展にも努めました。
そもそも「検校」の読み方を間違えて認識する人が多いですが「けんぎょう」と読みます。「けんこう」ではありません。
「検(あらた)め、校(かんがえ)る」という言葉に由来し、中世・近世における盲官(盲人の役職)の最高位が「検校」です。

検校の起源は平安時代にまで遡ります。
仁明天皇の第四皇子である人康(さねやす)親王(831-872)は若くして失明し、出家した際に、盲人を集めて琵琶や管絃、詩歌を教えていました。
人康親王の死後、側に仕えていた盲人に検校と勾当の2官が与えられ、これが検校と呼ばれる盲官の始まりとされています。

また「井筒八ッ橋」も八橋検校が深く関係しております。
常に物を大切にする検校は、特にお米を大切にしており、飯びつを洗うときに残るわずかな米のことが気になっていました。ある朝、日頃検校が何かにつけて世話になっている井筒茶店の主人「岸の治郎三」が、飯びつや桶を洗っているのに気付き、残った米を捨ててしまうのはもったいないと諭し、小米、砕米、そしてその残りの米に、蜜と桂皮末を加えて、堅焼煎餅を作るとよいと教えたといいます。これが、京の堅焼煎餅の起こりと伝えられています。
その後、八橋検校は、貞享二年(1685年)その生涯を閉じ、井筒茶店も含め祇園の茶店中で検校を偲び、琴の形に仕上げた堅焼煎餅を「八ッ橋」と名付け売り出したところ、それが大流行したと伝えられています。
これこそが「井筒八ッ橋」として今に受け継がれている、井筒八ッ橋本舗の原点とされています。

写真:浄土宗大本山・金戒光明寺

4/27/2024, 4:37:25 PM